Kumagusuku

reading club vol.2「熊楠とアート」第二章 不安と希望 *定員に達しました。

reading club vol.2「熊楠とアート」
第二章  不安と希望
藤本由紀夫(アーティスト)

(開催概要)
日時:2017年7月9日(日) 19:00~21:00
会場:KYOTO ART HOSTEL kumagusuku
定員:25名
参加費:1,500円(1ドリンク付)
ご予約:mail@kumagusuku.info ※メールにお名前、人数、携帯電話番号をご記入ください
主催:KYOTO ART HOSTEL kumagusuku

第二章  不安と希望

1. 19世紀末から20世紀初頭の状況

2. 新しいものの見方と新しい表現

3. 静止した世界から動きの世界へ

4. カンディンスキー、クレー、デュシャン

 19世紀末のロンドンで、西洋の最先端の文化、学術に浸っていた熊楠は、世紀が変わるとともに郷里の和歌山に戻り、東洋の一角の森の中で、顕微鏡の中の極微な世界で思考を全開させることになる。世紀末の不安と新世紀への希望の間で揺れた時期、熊楠はその振幅の中で「南方マンダラ」を熟成させていった。

 時代の変革期において、本能的に反応するアーティストがいる。その反応は何を示唆しているのか、それはアーティスト自身もわからない。彼等は創作行為をしながら考える。

 今回は熊楠と同世代のヨーロッパのアーティストの頭の中を覗きながら、熊楠とアートについて考えてみる。

1

事は物と心とに異なり、止めば断ゆるものなり

(南方熊楠 明治36年8月8日土宣法龍宛書簡)

絵を描くということは、相互の闘いのなかで、また闘いの結果として作品と呼ばれる新しい世界を創造すべく定められている。さまざまに異った世界の轟音を発する衝突にほかならぬ。

(ヴァシリー・カンディンスキー「カンディンスキーの回想」 西田 秀穂 訳)

「触発」という言葉は、行為の始まりに欠かせないいっさいの前提を含んでいる。

(パウル・クレー「造形思考」土方定一、菊盛英夫、坂崎乙郎 訳)

2

学問上の一つの事件が、この途上に横たわるもっとも重要な障害の一つを取り除いたのである。それは原子の更なる分割であった。原子の崩壊は、私の心のなかでは全世界の崩壊にも等しいものだった。

(ヴァシリー・カンディンスキー「カンディンスキーの回想」 西田 秀穂 訳)

近時、形以下の学大いに発達して蓄音機より、マルコニの無線電信、またX光線できる。それよりまたラジウムというて、自体に強熱を蓄え、またみずからX光線を発する原素を見出だす。金栗負け惜しみいうにはあらぬが、自分いろいろ植物発見などして知る。

(南方熊楠 明治36年7月18日土宣法龍宛書簡)

3

1. 物質の外に非物質、あるいは精神があることを認める人、

2. 物質の外にはなにも認めようとしない人。

後者の人にとって芸術は存在しえない。

(ヴァシリー・カンディンスキー 「点と線から面へ」 宮島久雄 訳)

たとえば、ここに白い絵具あり、黒い絵具、赤、黄、紫等あり、また紙もありと見て、それで絵は成ったといいがたし、また何の楽しみも妙もなし。しかるに、予創意発起してこれを調え、これを筆に下すときは、一物分子の増すにもあらず、一物分子の減ずるにあらざることながら、一種の妙法界を眼前に現じて、人もこれを見てたのしむの絵画となるなり。

(南方熊楠 明治27年3月4日土宣法龍宛書簡)

4

「つくる」とは何でしょうか。何かをつくること、それは青のチューブ絵の具を、赤のチューブ絵の具を選ぶこと。

(G.シャルボニエ 「デュシャンとの対話」北山 研二 訳)

釈迦は絵画を作りしものなり。龍樹、無著等はこれを補いしものなり。釈迦が決して絵の具を無中より作り出したるにもなく、紙を作れるにもあらざるなり。

(南方熊楠 明治27年3月4日土宣法龍宛書簡)

5

物質的な形態を、正確に再現するということは不可能である。つまり芸術家は、善かれ悪しかれ、自分の眼、自分の手に従うのであり、このばあいその眼や手は、写真的な目的以上のものを要求しようともせぬ魂よりは、はるかに芸術的である。だが、物質的な対象を記録することで到底満足できぬ、自覚した芸術家は、是非とも、描くべき対象に、かつては理想化とよばれ、やがて様式化といわれ、明日にはさらに何か別の名でよばれるであろう表現を、あたえようとするのだ。

(ヴァシリー・カンディンスキー 「抽象芸術論・芸術における精神的なもの」西田 秀穂 訳)

芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するのではなく、見えるようにすることにある。

(パウル・クレー「造形思考」土方定一、菊盛英夫、坂崎乙郎 訳)

発見というは、数理を応用して、またはtactにうまく行きあたりて、天地間にあるものを、あるながら、あると知るに外ならず。

(南方熊楠 明治36年7月18日土宣法龍宛書簡)

6

宗教、科学および道徳(とくに最後のものは、ニーチェのたくましい手によって)がゆすぶられるとき、そして外部からの支柱が倒れるおそれのあるときには、人間はその眼を外面から転じて、自分自身のうちへと向けるものである。文学、および美術は、このような精神上の転換が現実の形となって現われる、最初の、もっとも敏感な部分である。

(ヴァシリー・カンディンスキー 「抽象芸術論・芸術における精神的なもの」西田 秀穂 訳)

この世界が(まさに今日のように)恐るべきものであればあるほど、芸術は抽象的なものとなる。これに反し、幸福な世界は此岸の芸術を生み出す。

(パウル・クレー「造形思考」土方定一、菊盛英夫、坂崎乙郎 訳)

芸術はある時代の趣味よりはるかに深いものですし、ある時代の芸術はその時代の趣味ではありません。

(G.シャルボニエ 「デュシャンとの対話」北山 研二 訳)

仁者、予を欧州科学、云々という。予は欧州のことのみを基として科学を説くものにあらず。何となれば、欧州は五大陸の一にして、科学はこの世界の外に逸出す。もし欧州科学に対する東洋科学というものありなんには、よろしくこれを研究して可なり。科学というも、実は予をもって知れば、真言の僅少の一分に過ぎず。

(南方熊楠 明治36年7月18日土宣法龍宛書簡)

(スピーカープロフィール)
藤本 由紀夫(ふじもと ゆきお)
1950年名古屋生まれ。大阪芸術大学音楽学科卒。70年代よりエレクトロニクスを利用したパフォーマンス、インスタレーションを行う。80年代半ばよりサウンド・オブジェの制作を行う。音を形で表現した作品を個展やグループ展にて発表。その作品をつかったパフォーマンスを行うなど、空間を利用した独自のテクノロジーアートの世界を展開している。
「reading club」は、一冊の書物を読むように時間をかけて、物事を深く学ぶトークシリーズです。vol.2では南方熊楠研究者の唐澤太輔氏とアーティストの藤本由紀夫氏のトークを交互に開催し、「熊楠」と「アート」という二つの大きな書物を平行読書していきます。シリーズを通して、この二者がどのように交わり、そこから何が導き出されるかを探ります。

* reading club vol.1は2015年〜2016年にクマグスクで開催された展覧会「THE BOX OF MEMORY – Yukio Fujimoto」関連トークシリーズとして実施されました。 vol.1ファシリテーター:岡本源太、スピーカー: 唐澤太輔、細馬宏通、林寿美、篠原資明、平芳幸浩、藤本由紀夫(敬称略・開催順)