Kumagusuku

【 reading club vol.2 熊楠とアート】  - 第三章 「やりあて」とtact –

【 reading club vol.2 熊楠とアート】
– 第三章 「やりあて」とtact –

ゲスト| 唐澤太輔(南方熊楠研究者/ 龍谷大学世界仏教文化研究センター博士研究員)

日時 | 2017年10月14日(土) 19:00~21:00
会場 | KYOTO ART HOSTEL kumagusuku
定員 | 25名
参加費 |1,500円(1ドリンク付)

ご予約 | mail@kumagusuku.info
※メールにお名前、人数、携帯電話番号をご記入ください

– 第三章 「やりあて」とtact –

「やりあて」とは、南方熊楠(1867~1941年)による造語である。それは、端的に「偶然の域を超えた発見や発明、的中」と定義することができる。この艶めかしく妖しい語は、友人の真言僧侶・土宜法龍(1854~1923年)に宛てた書簡の中で、初めて用いられた。

ーー実は「やりあて」(やりあてるの名詞とでも言ってよい)ということは、口筆にて伝えようにも、自分もそのことを知らぬゆえ(気がつかぬ)、何とも伝うることならぬなり。されども、伝うることならぬから、そのことなしとも、そのこと用なしともいいがたし。…(中略)…発見ということは、予期よりもやりあての方が多いなり。(1903年7月18日付土宜法龍宛書簡)

熊楠は「やりあて」を言語あるいはロゴスを超えたものとして考えていたようである。彼は、それは、自分自身でも気づかないことが多いものであると述べている。それ故に、他者にこの「事実」を伝えることは、極めて難しいのである。もしかしたら、人は他者にそれを完全に伝えることなどできないかもしれない。しかし、できないからといって、それが「ない」わけではない。「やりあて」は、確実に「ある」のだ。
熊楠がここで述べている「予期」とは、数量(データ)に基づく「予期(予測)」のことである。ふとした瞬間にひらめくような「予知」のことではない。「やりあて」は、ふとした瞬間にひらめき、何かを的中させることなのである。実際に、熊楠は粘菌(変形菌)などを「やりあて」ることもあった。熊楠の娘の文枝(1926~2000年)は、次のように証言している。

ーー床につくとたちまちバタンキュウで高いびきなのであるが、プツンと高いびきが急に止み、むくっと起き出し着物を着るとそそくさと庭にでていった。そんな夜の翌朝は上機嫌で、今一度見たいと思っていた変形菌が、自分の念力が通じたのか夢で教えてくれたので、すぐ起きてその場所に行くと、不思議にもそこで見つけたと、大満足気であった。(南方文枝「追想〔父の茸絵の事など〕」1989年)

では、いかにしてこの「やりあて」は可能になるのか。それに対する熊楠の言葉は曖昧だ。「なんとなくやりあてて……」「偶然といわんにも偶然にはあらず」(1903年7月18日付土宜法龍宛書簡)などと述べている。――しかし、それが「リアル」なのである。
熊楠が「やりあて」とともによく使用する語に「tact」というものがある。実は、これこそが「やりあて」を理解する大きなヒントを与えてくれるものなのである。

ーー金栗【熊楠の自称】負け惜しみいうにはあらぬが、自分いろいろ植物発見などして知る。発見というは、数理を応用して、またはtactにうまく行きあたりて、天地間にあるものを、あるながら、あると知るに外ならず。(1903年7月18日付土宜法龍宛書簡、【 】内―唐澤)

発見は、もちろん数理(データ)に基づく綿密な計算によって行われることもある。しかし、熊楠は、どうやらそのような発見よりも、「tact」をうまく発揮できたときに成し遂げられる発見=「やりあて」に関心があったようだ。熊楠は「tact」を「何と訳して良いか知らず」(1903年7月18日付土宜法龍宛書簡)と言う。しかし、その代わりに彼は、さまざまな「事例」を挙げている。例えば次のような事例である。

ーー現に今の人にもtactというがあり。何と訳してよいか知れぬが、予は久しく顕微鏡標品を作りおるに、同じ薬品、知れきったものを、一人がいろいろとこまかくりて調合して、よき薬品のみ用うるもたちまち敗れる。予は乱妨にて大酒などして、むちゃに調合し、その薬品の中に何が入ったか知れず、また垢だらけの手でいろうなど、まるでむちゃなり。しかれども、久しくやっておるゆえにや、予の作りし標品は敗れず。(1903年7月18日付土宜法龍宛書簡)

熊楠が孤居していた那智の宿に、標本作成用の高価な薬品は、なかなか届かなかった。しかし、熊楠は手持ちの薬品などを「むちゃに調合」しても「よき薬品」よりも良いものができたと言う。熊楠の手にかかると、手元にある残りものの薬品を調合するだけで、正規の薬品より良いものができてしまうのだ。――これが「tact」である。
つまり、ありあわせ(≒アイデアの宝庫)の中から、自由自在に素材を選び出し結合させる力こそ「tact」なのである。どうやら、その力は、モノが過剰に溢れる中よりも、より少ない限られた状況において、強力に発揮されるようだ。
熊楠が那智山に持参していたモノは、非常に少なかった。書籍も、採集道具も、薬品も、全てがロンドンに遊学していた頃とは比較にならないほど限られていた。しかし、熊楠は、この限定された環境の中で、ありあわせの道具、少ない書籍の情報、そしてこれまで蓄えてきた知識をうまく組み合わせて「やりあて」ていた。いや、「限定」された環境だったからこそ「やりあて」ることができたのである。便利なモノが溢れ、設計図やノウハウが全て当てはまる状況においては、人間の「tact」は極端に鈍る。「tact」とは、野生の感覚であり思考なのだ。その力は、ロゴス的な知を遥かに超えている。「tact」は、情報を一気につかみ取り瞬時に並べ替えて配列してしまう力なのである。
アートにおいて「tact」による「やりあて」は付きものである。「臨機応変な結合力」である「tact」を最大限に発揮できたとき、人は、他を圧倒する作品を「やりあて」ることができるのではないだろうか。
「やりあて」は、知的なブリコラージュと言えるかもしれない。極めて野生的ではあるが、それは「神話」のように美しい。書籍も少なく外部からの情報もほとんど入って来ないような、非常に限られた状況において、熊楠のブリコラージュは最大限に発揮された。特に那智隠栖期、彼は、もちあわせの書籍とこれまでの経験知のみを頼りに「tact」を発揮し「やりあて」ていたのである。

〈ゲストプロフィール〉
唐澤太輔(からさわ たいすけ)
1978年、兵庫県神戸市生まれ。2002年3月、慶応義塾大学文学部卒業。2012年7月、早稲田大学大学院社会科学研究科・博士後期課程修了(博士〔学術〕)。日本学術振興会特別研究員(DC-2〔哲学・倫理学〕)、早稲田大学社会科学総合学術院・助手、助教を経て、現在、龍谷大学世界仏教文化研究センター(国際研究部門)博士研究員。専門は、哲学・倫理学、南方熊楠研究。

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〈reading clubについて〉

「reading club」は、一冊の書物を読むように時間をかけて、物事を深く学ぶトークシリーズです。vol.2では南方熊楠研究者の唐澤太輔氏とアーティストの藤本由紀夫氏のトークを交互に開催し、「熊楠」と「アート」という二つの大きな書物を平行読書していきます。シリーズを通して、この二者がどのように交わり、そこから何が導き出されるかを探ります。

* reading club vol.1は2015年〜2016年にクマグスクで開催された展覧会「THE BOX OF MEMORY – Yukio Fujimoto」関連トークシリーズとして実施されました。 vol.1ファシリテーター:岡本源太、スピーカー: 唐澤太輔、細馬宏通、林寿美、篠原資明、平芳幸浩、藤本由紀夫(敬称略・開催順)

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