Kumagusuku

reading club vol.2 熊楠とアート※満席となりました。

※満席となりました。ありがとうございます。

【 reading club vol.2 熊楠とアート】
「reading club」は, 一冊の書物を読むように 時間をかけて, 物事を深く学ぶトークシリーズ です。vol.2では南方熊楠研究者の唐澤太輔 氏 と ア ー ティスト の 藤 本 由 紀 夫 氏 のト ー ク を 交互に開催し,「熊楠」と「アート」という二つ の 大 き な 書 物 を 平 行 読 書 して い き ま す 。シ リーズを通して, この二者がどのように交わり, そこから何が導き出されるかを探ります。
* reading club vol.1は2015年–2016年にクマグスクで開催さ れた展覧会「THE BOX OF MEMORY – Yukio Fujimoto」 関連トークシリーズとして実施されました。
vol.1ファシリテー ター:岡本源太, スピーカー: 唐澤太輔, 細馬宏通, 林寿美, 篠原資明, 平芳幸浩, 藤本由紀夫 (敬称略・開催順)

日時:2017年5月28日(日) 19:00–21:00
第一章
唐澤太輔、 藤本由紀夫
会場 | KYOTO ART HOSTEL kumagusuku
定員 | 25名
参加費 |1,500円(1ドリンク付)
ご予約 | mail@kumagusuku.info
※メールにお名前、人数、携帯電話番号をご記入ください

 

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「南方マンダラ」――この奇妙な図には、天才・南方熊楠(みなかたくまぐす・1867~1941年)の世界観が表現されている。その勢いある筆致からは、熊楠の迸(ほとばし)る知が感じられる。まるで熊楠の知がスパークしたかのようにさえ見える。事実、熊楠は、この図を記した頃に自身の知が「灼然(しゃくぜん)と上進した」と述べている。「灼然」とは、輝く様を意味する。思想家・人類学者の中沢新一が「熊楠の星の時間」と呼ぶように、熊楠の思索は、この頃最も輝いたのである。

熊楠は、聖地・那智山の麓の宿で、真言僧侶の土宜法龍(どぎほうりゅう・1854~1923年)に宛てた書簡にこの図を記し、次のように語り出す。
ここに一言す。不思議ということあり。事不思議あり。物不思議あり。心不思議あり。理不思議あり。大日如来の大不思議あり。
熊楠は、世界を五種の不思議に分類し、説明しようとした。彼は、物理学などによって知ることができる物質の領域を「物不思議」、心理学によって考究可能な心の領域を「心不思議」、そして物と心が合わさる場を「事不思議」、さらに、現実世界と根源的な場とをつなぐような領域を「理不思議」と名付けた。そして、これらの領域を全て包み込むものを「大不思議」と呼んだ。熊楠によると「大不思議」は、人間の知を完全に越えており、考えることすらできないという。それは、我々をまさに在らしめている奥深い存在(Seyn)、万物の母胎(Matrix)、受容器(Cola)なのである。

熊楠によると、物・心・事の各「不思議」は、既存の学問で何とか考えることができると言う。一方「理不思議」は、想像・推論の領域であり、なかなか現在の学問では捉えきることはできない。しかし熊楠は、そこには「一切の分かり」が隠されているという。すなわち、自己と他者、現実世界と根源的な場など、全ての在り方(関係性)を知る鍵が隠されていると言うのだ。

人間が、かろうじて思考することが可能な領域であり、またすべてに浸透する場である「理不思議」において、「計算」などは当てにならない。その領域においては、予知夢やシンクロニシティが当たり前のように起こり得る。そこは、自然科学の因果系列をまるで無視したような場なのである。熊楠は、その場において重要なのは、tact(臨機応変の才、適否を見極める鋭い感覚)だと言う。先天的あるいは後天的に得られたtactをうまく発揮できたとき、我々は、偶然の域を超えた発見や発明、的中を成し遂げることができるのだ。熊楠は、それを「やりあて」と名付けた。そしてこの「やりあて」に欠くことができない要素が、対象への徹底した内在化・参入(距離のゼロ化)であり、熊楠はこれを「直入」と呼んだ。

芸術行為とは、まさに「やりあて」ではないだろうか。tactは、芸術家にとって最も重要な資質ではないだろうか。そして、芸術家が「世界」へ直入しているとき、彼ら(彼女)らは「理不思議」に立っているのではないだろうか。その時の熱中・心酔状態は、ロゴスの世界をはるかに越えている。熊楠と粘菌研究で親交のあったグリエルマ・リスター(1860~1941年)は、熊楠による標本の記載文は「詩的情熱」に溢れていたと述べている。顕微鏡から粘菌を覗く熊楠は、完全に「冷静さ」を失っていた。目の前に広がる微小の宇宙にのめり込み、ほとんどトランス状態になっていたのだ。

熊楠は、錯綜する図の中心を「萃点(すいてん)」と名付けている。そこは、心と物、自己と他者など、対立しているように見えるものが重なり合う地点である。しかし、そこは絶対不動の場ではなく、あくまで人間にとっての便宜的な点でもある。対象との距離が極めてゼロに近くなった場、すなわち「理不思議」に立った者は、「萃点」に戻るに至って初めて自分が今までいた場がどのようなものだったのかを(ある種冷静に)知ることができる。「理不思議」に立ち続ける者は「理不思議」が何たるかを真に知ることはできないのだ。そこから離れることで、そこに気づくのである。

我々は「理不思議」とは何かを深慮しなければならない。しかし、その場に立つことは極めて難しい。一方、常にそこに立っている者は、その場の重要性になかなか気づかない。熊楠の常態(normal state)は「理不思議」に居ることであったが、時に彼はそこから距離をとることもできた。だからこそ、彼の言葉は我々にとって重要な意味を持つのである。

現実世界と根源的な場との中間に立つとき、そこに立ち現れてくるものとは何か。無への不安か、恍惚か、絶望か、希望か。――「通路(パサージュ)に立つ者」南方熊楠を通じて「理不思議」という深淵を覗き込んでみたい。

唐澤太輔

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